在りし日の国鉄大阪駅 [鉄道]
1979年から1981年頃の国鉄大阪駅の風景を集めてみました。当時は経済的な理由で、白黒フィルムで撮影していました。
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↑大阪駅駅名票
↑8番線の153系新快速
当時の大阪駅は今のような華やいだ雰囲気はなかった。ただ列車が発着していただけだった。
↑キハ47
福知山線はまだ電化されていなかった。朱色の気動車が快速だった。
↑DD51
普通列車は機関車牽引の客車仕立ても珍しくなかった。
↑キハ58系急行と特急雷鳥
当時の山陰線は特急は少なく急行が主力だった。特急の絵入りヘッドマークが走り始めていた。
↑EF61牽引の貨物列車
貨物なのに蒸気発生装置が作動していて煙が上がっています。
↑大阪駅東側
左手に新阪急ホテル。このあたりの風景は今と変わりがないような気がします。
↑EF58
写真からは単行か牽引かわかりません。確か当時はあかつきなど関西発九州ブルトレもEF58が牽引していました。
↑キハ82とクハ455
キハ82が山陰特急「まつかぜ」か「はまかぜ」、クハ455が北陸方面電車急行「ゆのくに」。懐かしい組み合わせです。
↑急行ゆのくに
自分が撮った写真でもベストの出来です。白黒なのでわかりませんが、クリームとピンクの塗装です。クロスシートの電車急行。デッキがあって車内は落ち着きがあり、近郊型のセミクロスシートよりもゆったりとしていました。しかし特急車両に比べて中途半端な存在で、やがて消えていった。昭和40年代なら通用したんでしょうが。まあ昭和遺産ですね。
↑485系特急雷鳥
JRとなった今でも485系は走っている。回転リクライニングシートに固定窓という基本仕様は今の特急と変わらないから、まだ通用していているのだろう。
↑湘南色113系
当時の東海道線の普通列車はこれだった。クロスシート部はお互いの膝がつくぐらい狭く、快適とはいえなかった。確かグリーン車も連結されていた気がするけど、ドケチな関西人には金を払ってまでちょっといい席に座る感覚が理解できなかったらしい。でも今なら混雑している新快速に連結すれば増収になるような気がする。でもわざわざ車両を新造するリスクはJR西日本としては負いたくないだろう。
↑環状線ホームに到着する奈良行き快速
当時は青帯の新快速がブルーライナーと呼ばれていたのに対して、奈良行き快速は「春日塗り」といわれる橙帯を巻き、オレンジライナーと呼ばれていた。もっともマニアがそう呼んでいただけであって一般人は、奈良方面へはこの快速に乗らず、近鉄を利用していたようだ。
↑ホームからみる丸ビル
東京の丸ビルは丸の内にあるからそう呼ばれる。大阪の丸ビルは形が丸いからそう呼ばれた。当時の関西ではビールの消費量などの目安として「丸ビル何杯分」とかよくメディアに登場した。当時はこのようにホームからよく見えて、屋上の電光掲示板は注目されていたが、周辺に高いビルが建って埋没してしまい、今は掲示板はない。大阪駅ビルを建設中だったので大きなクレーンがある。アクティ大阪と名付けられ、大丸百貨店が入居した。今は北側に伊勢丹の入ったビルが建設されて、陳腐化が目立つ。
↑スユ44
まるで貨物車のようだが、郵政省所有の客車である。といっても有害貨物車ワキ8000とほぼ設計を同一にするものだ。当時の郵便物はこのような鉄道郵便車で運ばれるのが普通であった。
スユ44について
↑急行ゆのくにと103系
これは1981年頃の写真。103系は宝塚行きのカナリアイエロー。国鉄としては新車を用意して、阪急電車に対抗しようとしたのだが、コイルバネで同じロングシートでも居住性が劣悪で、阪急の敵ではなかった。福知山線が阪急に対抗できるようになったのは、車両の改善とスピードアップを果たした平成に入ってからである。
↑三ノ宮行き特急雷鳥
当時は北陸方面の特急雷鳥が三ノ宮からも発着していた。国鉄末期のあの頃、限られた予算で何とかして客を増やそうとしていたのだろう。平成以降は神戸発着のスーパー雷鳥が存在した。
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↑大阪駅駅名票
↑8番線の153系新快速
当時の大阪駅は今のような華やいだ雰囲気はなかった。ただ列車が発着していただけだった。
↑キハ47
福知山線はまだ電化されていなかった。朱色の気動車が快速だった。
↑DD51
普通列車は機関車牽引の客車仕立ても珍しくなかった。
↑キハ58系急行と特急雷鳥
当時の山陰線は特急は少なく急行が主力だった。特急の絵入りヘッドマークが走り始めていた。
↑EF61牽引の貨物列車
貨物なのに蒸気発生装置が作動していて煙が上がっています。
↑大阪駅東側
左手に新阪急ホテル。このあたりの風景は今と変わりがないような気がします。
↑EF58
写真からは単行か牽引かわかりません。確か当時はあかつきなど関西発九州ブルトレもEF58が牽引していました。
↑キハ82とクハ455
キハ82が山陰特急「まつかぜ」か「はまかぜ」、クハ455が北陸方面電車急行「ゆのくに」。懐かしい組み合わせです。
↑急行ゆのくに
自分が撮った写真でもベストの出来です。白黒なのでわかりませんが、クリームとピンクの塗装です。クロスシートの電車急行。デッキがあって車内は落ち着きがあり、近郊型のセミクロスシートよりもゆったりとしていました。しかし特急車両に比べて中途半端な存在で、やがて消えていった。昭和40年代なら通用したんでしょうが。まあ昭和遺産ですね。
↑485系特急雷鳥
JRとなった今でも485系は走っている。回転リクライニングシートに固定窓という基本仕様は今の特急と変わらないから、まだ通用していているのだろう。
↑湘南色113系
当時の東海道線の普通列車はこれだった。クロスシート部はお互いの膝がつくぐらい狭く、快適とはいえなかった。確かグリーン車も連結されていた気がするけど、ドケチな関西人には金を払ってまでちょっといい席に座る感覚が理解できなかったらしい。でも今なら混雑している新快速に連結すれば増収になるような気がする。でもわざわざ車両を新造するリスクはJR西日本としては負いたくないだろう。
↑環状線ホームに到着する奈良行き快速
当時は青帯の新快速がブルーライナーと呼ばれていたのに対して、奈良行き快速は「春日塗り」といわれる橙帯を巻き、オレンジライナーと呼ばれていた。もっともマニアがそう呼んでいただけであって一般人は、奈良方面へはこの快速に乗らず、近鉄を利用していたようだ。
↑ホームからみる丸ビル
東京の丸ビルは丸の内にあるからそう呼ばれる。大阪の丸ビルは形が丸いからそう呼ばれた。当時の関西ではビールの消費量などの目安として「丸ビル何杯分」とかよくメディアに登場した。当時はこのようにホームからよく見えて、屋上の電光掲示板は注目されていたが、周辺に高いビルが建って埋没してしまい、今は掲示板はない。大阪駅ビルを建設中だったので大きなクレーンがある。アクティ大阪と名付けられ、大丸百貨店が入居した。今は北側に伊勢丹の入ったビルが建設されて、陳腐化が目立つ。
↑スユ44
まるで貨物車のようだが、郵政省所有の客車である。といっても有害貨物車ワキ8000とほぼ設計を同一にするものだ。当時の郵便物はこのような鉄道郵便車で運ばれるのが普通であった。
スユ44について
↑急行ゆのくにと103系
これは1981年頃の写真。103系は宝塚行きのカナリアイエロー。国鉄としては新車を用意して、阪急電車に対抗しようとしたのだが、コイルバネで同じロングシートでも居住性が劣悪で、阪急の敵ではなかった。福知山線が阪急に対抗できるようになったのは、車両の改善とスピードアップを果たした平成に入ってからである。
↑三ノ宮行き特急雷鳥
当時は北陸方面の特急雷鳥が三ノ宮からも発着していた。国鉄末期のあの頃、限られた予算で何とかして客を増やそうとしていたのだろう。平成以降は神戸発着のスーパー雷鳥が存在した。
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